りそうのせんそう
二匹のねこ、タマと小太郎が激しい縄張り争いを終え、お互い傷だらけで短い草むらの上にゴロリと横になりました。
「やられたやられた。今回はお前さんに勝ちを譲ってやらあ。」
タマは白黒のがっちりとしたぶちねこです。人間の単位で言うならば7、8キロほどの重さもあるでしょう、前の戦いの傷が治ったばかりなのにまたしてもこっぴどく身体中をやられてしまいました。しばらくひりひり痛んでザラザラの舌で舐めることも出来ないのですが、オスねこはみなこうなので文句の一つも言わず、きっぱりと負けを認めました。
「いやいや、何年もこのあたりのボスを務める貴方に私なんかが勝てるとは思いもしませんでしたよ。全くその逞しい腕からくるパンチの素早いこと重いこと、どうやって鍛えているのか全ねこがご教授いただきたいはずだ。」
キジトラの小太郎、タマよりほんの一回りだけ小さな、これもまた立派なオスねこが、はあはあ息を切らしながらもこう言って精一杯の敬意を表しました。タマの強さと凛々しさはオスねこだけではなくみんなの知るところで、恐れるだけではなく憧れでもあったのです。
「ははん、そんなお世辞はいらないが、この俺に挑んだ勇気を買ってもらっておくよ。お前さんの立ち回りも見事なもんだ、俺が引退した後ここいらをまとめるのは間違いなくお前だろうな。よろしく頼むぜ。」
タマはそう言って傷をかばいながら仰向けになり、青い空を見上げました。涼しい風がヒゲを揺らして、負け戦の後でもなんとも気持ちがせいせいとしたものでした。小太郎がそれをすら尊敬して横目で見ながら、ふと顔をちょいともち上げて言いました。
「そういえばタマどの、私の飼い主たちが話しているのを小耳にはさんだのですけれども、人間達のする争いは我々猫とはずいぶん違うようですよ。」
タマは耳だけをピクッと動かしました。
「そうなのかい、どんなだい。あいつらはどんな戦いぶりかい。あれだけ大きいと爪はみじめなもんでも傷も深かろうな。」
「それが、信じ難いことに一対一ではないようなのです。何やら恐ろしい道具も使うとかで。」
「なにっ。」
タマは痛む体も忘れガバッと起き上がり、小太郎の肩をゆすりました。
「それはどういうことだ、俺たちのように勇気のない奴らが群れるのは分かるが戦う時もか。情けない。それにそんなら縄張りの分け前やボスはいったい誰が決めるんだ。」
「ええとですね、そこまで詳しくは聞こえなかったのですが、どうやらボスそのものは戦わないだとか、何やらまだまだ若い下っ端ねこやメスねこ、こねこまでが巻き込まれることもあるとかで……。」
「ぬぬう。」
それを聞いて真っ赤な怒りでタマの全身とヒゲはぶるると震えました。空を見てあんなにもいい気分になったのが台無しです。
「めすや子までだと。全く、全く許されん。いけすかない犬やら他の奴らだってそんな話は聞いたことがないぞ。それにそんな卑怯極まりない臆病者はボスなどととうてい呼べん。そいつら全員ここへ連れてこい、この俺が説教してやる。」
気性の荒いタマが手足で地面をどこどこ踏み鳴らすのを、小太郎は必死に押し留めて言いました。
「まあまあタマどの落ち着いて。そんなにやりますとやっと眠ったここらのもぐら達も起きてしまいますし、私が負わせた傷がひどくなる一方ですからおやめ下さいな。」
タマの怒りはちっとも収まりませんでしたが、小太郎の言うことはもっともなのでとりあえずまた筋骨隆々の体だけを静かに横たえました。
「まあ俺は野良だからな。はんぶん野良のお前とは違ってそんな事情は全然しらなかったぜ。はらぺこにすぎる時、あいつらから魚なんぞ恵んでもらっていたのが恥ずかしいや。」
「タマどの程この辺りに詳しい方はいませんからねえ。この間もあそこの角の三毛に五匹も生まれたのを誰より早く知っていて、雀を届けたらしいじゃないですか。彼女に聞きましたよ、まだ動けないからと大変感謝していましたよ。」
小太郎はこの話を言うつもりはなかったのでしたが、話しながら嬉しくてにっこりしてしまい口元の引っ掻かれたところが引きつれ痛み右手で押さえる羽目になりました。
「よせやい、俺はお世辞はだい嫌いなんだ。弱っていたり病気のねこにそうするのは当然だ。そんな事も把握してないで、できないでいるんならボスと呼ばれる資格は一切ない。」
「私もいつかタマどののように、本当に強く優しくなれたらどんなにいいかと思うんですよ、これはまごころからでお世辞ではないのだから受け取ってください。完全なる野良として暮らすのがどんなに厳しく誇り高い生き方か、最近の私どものようなものにはなかなか出来ないんですから。」
タマは小太郎の言葉を聞いてようやく心がしんとして、また空と雲とをしみじみ眺めて言いました。
「野良は確かに厳しいんだ。真冬お前が暖かい場所でぬくぬくしてる時に俺は上手くやらないと凍え死んじまいそうだし、腹一杯に満足できる日も少ねえよ。」
目を閉じてタマはこう続けました。
「でもなあ、いいものだぜ……好きなときに好きなところに行って好きなことをやれるってのは。雨に濡れるのも風に吹かれるのもたまにはいいもんだよ。犬ってのは最近ほとんど首輪なんかつけているだろう、こう言っちゃなんだが苦しそうで見ていられねえな。人間の家の塀の上なんか歩くといちいち五月蝿えが、あんな小せえ小屋にずっと繋がれてるんだものどんなに言われてもしょうがないと思ってやり返す気も失せっちまうよ。」
「それは私も思いますねえ。彼らは私なんかには存外友好的なんです。だからお手だの伏せだの何度も言いつけられたり、我々に比べて声が大きいものだから逆に怒鳴られているのなんかが聞こえてくると心苦しいですよ。」
それを聞いてタマはまた怒りが込み上げてきました。
「なんなんだ、犬どもの言葉もわからないくせに自分たちの命令はわかれってのかい。勝手なもんだな。俺は絶対にどんなに腹が減っても奴らにへつらって座ったり立ったりすらしないぜ。それが野良の、ねこの、俺たちの誇りってもんさ。」
「なかなか難しいですねえ。私のとこの人間は親切なもので半分野良でも呑気に暮らしておりますけども。人間はどうやら我々ねこより犬より、それどころかもっともっと大きな動物達より何より偉いと思っているみたいですからねえ。」
タマは少し首を傾げて、仰向けのまま腕組みしました。
「あいつらよりもっともっと図体の大きい奴が沢山いるのかい。世界は広いねえ。俺はこの辺でちょっくらいい気になっていただけのもんだなあ。小太郎お前は物知りだよ、全く。」
「いえいえ、有り難いですけどそれこそお世辞というものですよ。タマどのそろそろお腹が空く頃でしょう。私もあんまり長居すると飼い主が心配するかもしれません。」
小太郎が左手を伸ばしてタマの盛り上がって硬い肩をトントンとやりました。
「そうだなあ。俺はいつものことなんで平気だが、その傷の方が心配かけるんじゃないのかい。」
「これくらいなら気付かれませんよ。タマどのが本気を出したら小さな犬くらい息の根を止めてしまうでしょうけど、いつもの戦いではそこまでやることはないですからね。それにひどく膿んだりしたら、飼い主が病院というところに連れて行って治してくれますのでご心配なさらずに。」
立ち上がって小太郎が膝についた草をサッと払いました。
「そうなのかい。優しいんだか卑怯なんだか分からねえ奴らだなあ。それじゃあ大事にな。傷口はまずてめえでよく舐めとくんだぜ。」
「はい。今日は不躾ながらもお手合わせ有難うございました、勉強になりました。またお願い致します。」
キジトラは深々とお辞儀をしました。
「大げさな奴だなあ。さっさと行けよ、小太郎。」
タマはしっしっと払いのけるように軽く手を振りながら言いました。
「こっちこそ色々学ばせてもらったぜ。俺はここにこのままこうしていたいから、じゃあまたな。」
もう一度お辞儀だけして小太郎は走って行きました。
タマは野原に一匹、寝転がったまま空を見たり目を閉じたりして、しばらくそうやって何かを考えているようでした。
2023/05/14