青い花
(何だっておれにはこんなに金が無い)
コートのポケットに両手を突っ込んで、痩せた男がオーギュの街の夜を歩いています。青黒い石畳には小雨がまだ乾かず、ぬらぬらと街灯にひかっていました。
(おれはこんなにも不遇だが何も悪いことはしていないぞ。いや悪いことをしていない奴などこの世にいるものか。それにしてもおれには金だけでない、何もかもないじゃないか)
昼も夜もこんな調子で心の中でうそぶきながらふらついていましたが、そのうち一番安いお酒を買うのも悩むようになりました。
この男、ルドルフは画家でした。画家と言えるほどさっぱり有名ではありませんでしたが、パンを二日食べないのは平気でも、キャンバスやすぐ駄目になる豚毛の筆や、絵の具代だけは削る事ができなかったのです。
ルドルフが遠い故郷からオーギュへ出てきて三年が過ぎようとしていました。この国では一番芸術の盛んな街です。着の身着のままトランク一つだけを持って汽車に飛び乗り、がたんごとんと揺られながら若き芸術家はひとりランプのようにはげしく燃えていました。大きな野心を抱いて、それよりももっと偉大な何かをじぶんはやってやるのだ、今に見ていろ、と遠ざかっていく小さな町に向かって呟きました。
しかしルドルフはいつまでたってもその頃のままでした、いえ、それどころかあんなにも燃えさかっていた炎がだんだんと勢いをなくしてきつつあるのに画家自身も気づいていました。賑やかながら冷たい都会の風に吹かれたせいなのか、ただ年を取ったからなのか、ルドルフにも分かりませんでした。酷い日には絵筆を握る気にもなれずに、代わりに故郷では飲んだこともなかったお酒の瓶を持っていました。
(そろそろ煮詰まってきたなあ。何を描こうかなんて悩みだしたら、おれ達はもうはんぶん終わりだ)
オーギュの長い冬がようやく終わり、ある晴れた日にルドルフはいつものようにぷらぷらと歩いていました。今日はポケットに突っ込む代わりに、画家らしい道具を両手に抱えています。ごみごみとした中心街を抜けて少し開けた地区に出ると、何となしに、あれほど嫌だったちっぽけな故郷を思い出しほっとする自分がいました。
(やれやれ、いったい何のためにここまできたんだ)
立ち止まってルドルフがぼさぼさの頭をくしゃっとやりますと、その時子どもたちがわあっと大きな声を上げて駆けてきました。
「どうしたんだい。」
のっそり声をかけた見知らぬ画家に驚きながらも、男の子のひとりが、大きなお屋敷を指さして言いました。
「あっ、おじさん。あのねぼく達遊んでいたら、ボールがあそこのお庭に入ってしまったんだ。」
おれはおじさんに見えるのか、と一瞬変な顔をしてからルドルフは、その子の金色の頭をぽんと優しく叩きました。
「しょうがないな。取って来てやるから、ここでちょっと待っていろ。」
痩せた画家は入れそうな塀の隙間を見つけてくぐると、ひょいと垣根を飛び越えました。よく手入れのされた庭の端に、赤いボールが転がっているのがすぐに見つかりました。ルドルフの大きな手はスケッチブックを脇に挟んだ片方だけでボールをひょいと拾い上げることが出来たので、こんな所からはさっさとずらかろうとしました。ちゃりん、と明後日までのパンも危ない小銭の入ったポケットが鳴り、
(全く、こんな家に住んでいるやつらの道楽の為におれ達はつまらん絵を描かなきゃならないよ)
貴族の邸宅らしき立派な建物を見上げ暗く心はくすぶりながらも、窓の奥にちらちらと揺れる何かに、画家の鋭い目は釘付けになりました。
白い豪華な窓枠の向こうに、波打つ髪の娘がいました。ゆるく結い上げられた亜麻色の髪、つんとした鼻と桃色のくちびる、その横顔をよくよく見れば娘というよりはルドルフに近い、もう誰かの奥方になって子どもの二人もいてもおかしくないような年頃でしたが、画家は目を離すことができませんでした。
(何という美しい女(ひと)だ)
ルドルフは筆と油壷の入った鞄を落としそうになり慌ててもう片方の手で押さえました、そうしたら脇に挟んでいたスケッチブックや画板が雪崩のようにばさばさと大きな音を立てて滑り落ちました。
「あら?何の音。」
驚いた女の人は、はっとこちらに振り向きました。ルドルフは頭を引っ込めて屈んだまま急いで地面に散らばった紙を集めました。そして見つかっては大変だと、庭を這い出て待っていた子どもたちにボールを手渡すとすぐさま街の方に駆けて行きました。
(おれの心臓は、走ったくらいでこうまでならない。どうしたどうした)
ルドルフの顔の赤いことは暖炉の燃えさしのようでした。風のように走り、すれ違う人もよく見えませんでしたが、ここオーギュは大きな街でもっとはなやかで美人と名高い人も、仲間の雇うモデルには女優の卵だっているのです。
矢のように真っすぐに家に帰ってガチャガチャとコーヒーを入れる手順さえ間違えながら、画家の見る目は確かなので必死にこのおかしな、「世界で一番美しいひとを見た」という考えをどこかへ捨ててしまおうとしました。
(もっと美人な娘は、あの田舎町にだっていくらかはいたろうよ)
今までに見た女の人の顔を思い出そうとしても、なぜか全部あの窓辺のひとの顔になってしまうのです。
(なんて綺麗なんだろう、あの人は。声までも)
あら、何の音――たった一言なのに焼き付いて離れません。耳より目よりどこにあるのか分からないのに、不味いコーヒーを三杯飲んでも冷たいシャワーを浴びてもどうしようもなくまとわりついてきます。
(どうかしているぞ、貧乏でついに頭までやられたか)
それから何日もの間、ルドルフは何を食べてどう過ごしていたのか思い出せませんでした。ただ、部屋の片隅でぼんやりとちびた鉛筆を舐めては、紙にあの女性の姿を思い出し描いては消してをひたすら繰り返していました。
ルドルフはそれまでただの一度も人物画を描いたことがありませんでした。周りの画家仲間がモデルを雇ってまで描きたがるのに、建物やヨットや猫や靴よりも描こうと思えなかったのです。なんだか誰を見ても筆が進まなかったし、それとほんとうのところは、ルドルフ自身が格好のよい男ではないからかもしれませんでした。ひげを剃る時などはなるべく早く済ませてえいっと鏡に映る自分の顔から目をもぎ離すようにしていましたし、街で見かける流行りのドレスを着た女性を連れた洒落者たちなどはもっと見たくないのでした。
ルドルフは背も高いほう、自分で思うほど醜男では全くなかったのでしたが(消しゴムがわりのパンを買いに行くパン屋の娘さんなどは彼が来るのを心待ちにしているほどでした)、とにかく売れない画家はお金がなく身なりを気にしないので、実際よりどうにも悪く見えてしまうのでした。
(あんな人はおれのことなど見もしないだろうな。なのにおれはあんなにも綺麗な人を夢にまで見てしまう。不釣り合いもいいところなのに、くそ。)
ベッドに体を投げ出して、しばらく日干しもしていない布団をかぶり埃に咳き込んでルドルフはがぶりとハムより肉のない右腕を噛みました。
(――でもあの人の美しさを、誰よりうまく描いてやるんだ。そう、おれのために)
でもそれには、どうしてももう何回かは彼女の姿をよく見ながらスケッチをする必要がありました。またあのお屋敷に忍び込まなければならない、そう考えると胸がベッドと夜とに重く沈みました。
(あれはどう見てもこの街、一、二を争う由緒ある貴族の邸宅に違いない。おれなんかあの門をくぐる事さえままならない身だ。最近名の売れ始めたカールならともかく。畜生)
今でもくっきりと思い描けるあの貴婦人のきらびやかなドレスに比べ、すぐ脇の壁にかけてある一張羅の上着さえどんなにみすぼらしいかを思うと、ルドルフはみじめでなりませんでした。
春の花々がようやくほころびだすころ、よく手入れされたあのひろい庭の隅に、画家はいました。
前ボールを取りに入った時とは違って、道路沿いからではなく裏庭の方からそっと忍び込んだのです。まるで泥棒でしたが、痩せていつも地味な服を着た画家には下手な絵を描くよりも難なくすすむ仕事でした。
(ああ、彼女をもっと近くで見たい)
ルドルフの気持ちは高まるばかりで、見つかることも恐れずにどんどん白い窓の方に近づいていきました。
この邸宅に忍び込むのは三回目、陽が落ちるまでいた日もありましたがもうこれで最後にしようと決めて来たのでした。貴婦人はいつも窓辺の椅子に腰かけて、飽きることもなく庭を眺めていました。蜜のような巻き毛がきらきら春のひかりに輝き、いつでもその人は優しく微笑んでいるかのようでした。
ルドルフは、だんだんと画家が見つめるようにモデルもこちらを見つめ返しているような、そんな気さえしてきました。
(そんな訳はない。まあおれはきっとそこらの灰色鼠も同然、ちょっとくらい動いたってわからないのさ)
草むらに隠れて鉛筆を握りしめ、ざわざわと木の葉と一緒に画家の髪はゆれました。
(……おれはこのまま死んでもいいとさえ思っている、どうかしている、でもこれはほんとうだ)
波打つ髪の女性をじっと見つめていると、周りの景色がおぼろに霞んで、お屋敷に、いえオーギュの街に世界中に、たった二人だけがいるかのようでした。前ならルドルフが喜んでモチーフに描いていた立派なお屋敷も楡の木も、なんだか全てがぼんやりした背景になってしまうのです。
どんなにかお金を稼いで、もっと大きな隣国の画商で売れっ子になって誰より有名になり、故郷の兄弟や画家仲間も貧乏を馬鹿にするつまらないやつらもみんな見返してやろうと思ったのに、いつまでもこうしていられるのなら、そんなことは全部どうでも良くなってくるのでした。
(……でも彼女はずっとこっちのほうを見ているがぴくりとも動かない。モデルにはうってつけだけれども、なんだっていつも、何もないつまらない庭ばかり見ているんだろうか。このひとは間違いなくこの屋敷の貴族の娘さんだろうし、手に入らないものなどないだろうに)
豪華な扇どころか、後ろにずらりと並んだ本さえ手に取ろうともしない貴婦人を、ルドルフは素早くスケッチしながらだんだんと不思議に思うようになりましたが、彼女がきらびやかな舞踏会やらなんやらで他の男の手を取って踊る光景が浮かぶと、いそいで頭の中を消しゴムで消すようにしていました。
(このひとにはシャンデリアだの宝石だのより、この野の花のほうが似合うんだ。そうだそういうひとだからこそ描きたいのだ。いやこれはおれの勝手な思い込みだそうであってほしいという願い、たんなる妄想だ……)
画家はいつもひとりで頭の中でこうしてぶつぶつやるのが癖でした。そうして知らないうちにいつしか二人はとても近い距離にいましたが、窓の位置は高くここは庭の外れ、お屋敷のほかの場所からはちょうど死角に画家は陣取って居ましたので、誰にも見つからないまま首尾よく山ほどのスケッチが描けました。
いつの間にかルドルフの狭い部屋には、大きさはてんでばらばらですが、同じ女の人の絵で一杯に埋め尽くされました。コーヒーの茶色のしみのこびり付いたカップや汚れた雑巾の隣りに真珠の首飾りをした貴婦人がずらりと並んでいるのを、描いた画家自身も変な気分で眺めていました。
そして二十枚目ほどで、ルドルフは仕上げの筆をぴたりと止めて、ふぅと息を吐きました。
(とうとう出来た。じぶんで言うのもなんだがこれは傑作だ。オーギュの画商になんか、ただの一人もこの価値は分かるまい)
部屋を行ったり来たり、満足げに絵の中の貴婦人と目を合わせるたびに、だんだん画家はこの絵をあの人に見せたい、と思うようになりました。
(ばかげた話だよ。こんな名もない画家くずれが、勝手に頼まれもしないお姫様の肖像画を描きましただなんてさ)
ルドルフは描き終えた時あんなにも誇らしかった自分さえ恥ずかしくなってきました。お酒を辞めてたまの贅沢のハムも我慢し、貯め込んでいた絵を全部安値で売り飛ばしたそのお金で、貴婦人のドレスに使う高価な絵の具を買っていたのです。
汚れた鏡をこわごわ覗くと、その中にぽつんと立っている貧相な男は今までで一番瘦せこけ、古ぼけたランプのせいかなんだかぞっとする顔色でひげも髪も伸び放題でした。画家の顔はくしゃくしゃに歪み、またベッドに思い切り身を投げ出しました。
(おれは、おれは元々こんなだものいくら痩せたって構わない、だが絵の中でだって彼女は誰より優雅でなくっちゃいけなかったんだ)
ルドルフは少しだけ泣いて、せめてこの髪だけでも知り合いの床屋で何とかしてもらおうと思い直しその夜はやっと寝ました。
それから何日か経って、ひげを入念に剃り、何か月ぶりかに髪をさっぱりと切ってもらい綺麗に撫でつけ、一張羅の上着を着てルドルフはお屋敷の前に立っていました。いつもの仲間が見たら誰だか分からないくらい、そのいでたちは貧乏画家にしては上出来でした。じっさい中心街の酒場の前を通る時、寝ぼけた踊り子たちが「ねえ、そこのすてきなだんな!」とはやし立ててきたくらいです。一番人気のコーディリアが声をかけてもルドルフはそそくさと通り過ぎ愛想笑いしか返しませんでしたので、歌姫は不服そうでした。
画家はコンコンと咳払いをしてから、自分よりずっと背の高いドアについた立派な獅子のノックをコンコンとやりますと、中から上品な老婦人が出てきました。
「いらっしゃいまし、画家様。そのいで立ちで分かりますよ。いったい何の御用でしょう?」
ルドルフは追い払われなかったこととメイドの態度にほっとして、お屋敷の主人を訪ねてきたのではないこと、あの窓辺の女性に会いたいのだとなるべく失礼の無いように伝えました。
「まあまあ、さようでございますか、わざわざお嬢様に。きっとお喜びになりますよ。わたくしはアーニャと申します。マリアンヌ様付きの乳母で、いま現在は小間使いでございます。」
(マリアンヌ)
そうだいつだったか遠くからあのひとをそう呼ぶ声が聴こえた気がする、ルドルフの耳はカッと熱くなりました。
品の良い白髪の小間使いは快く画家を招き入れ、お屋敷を案内しました。天井はルドルフの小屋のような家の二倍も高く、壁には憧れた巨匠の素晴らしい出来の模写がいくつも飾られていました。ルドルフのすり減った革靴では、アーニャのコツコツという磨かれた床を叩く靴音さえ鳴らないことにも画家は気づきました。
(帽子くらいもう少しましなものを借りるべきだったろうかなあ)
あんまり場違いで何もない斜め上に視線をやっていたルドルフに、マリアンヌの部屋への扉を引く直前で小間使いは立ち止まり、そっと囁きました。
「ルドルフさま。お嬢様は、生まれつきお目がお悪うございまして、盲目のお方なのでございます。」
(なんだって?今なんと)
画家が驚きのあまり何も言えずにいると、無理もないとアーニャはしずかに続けました。
「お姉様おふたりも大変に麗しい方で、もうとうに立派なお家柄の奥方となられましたけれどもね……マリアンヌ様はわたくしが言うのもなんですけれども一番気立てが良くていらっしゃるのに本当にお気の毒で。でも神さまのお計らいなのか、その代わりに大変にお耳はよろしいようなのですよ。お屋敷の端の、この静かなお部屋から入る風や鳥の歌を聴かれるのが昔からのお嬢様の楽しみでしてね。最近など晴れた日にはいつでも窓辺におられて、まるで私どものように春の蝶でもご覧になっておられるかのようでばあやも嬉しゅうございました。」
言葉の一つ一つに殴られたようにルドルフの頭はガンガン鳴りました。
(どうか夢であってくれ。こんなにも上手く描けた彼女の絵を、おれの最高の作品をあの人は見る事ができないのか。こんな皮肉があるか。彼女は何もかも、全てを持っていると思っていたのに)
ルドルフが小間使いに招かれ猫のように忍び足で部屋に入りますと、その人は窓辺から扉の方に振り返りました。突然の訪問者にも盲目のマリアンヌは驚くこともなく、窓辺でアーニャに事情を聞いていました。そのぎこちないしぐさに、画家は自分のたいへんな勘違いを愚かさを、紺の一張羅の金メッキのボタンなどむしり取りたいくらい、今すぐここから逃げ出したいほどに恥じて、ぎり、とくちびるを噛みました。
「こんにちは、画家さん。ばあやから聞きました。ルドルフさんというのですってね。」
マリアンヌがスケッチしていた時のようにやわらかく微笑むと、画家はますます何も言えなくなり押し黙ってしまいました。
(ああ最初に聞いたあの声だ、あのナイチンゲールのさえずりそのものだ。でもおれはなんと言ったらいい)
「今までお声をかけてくれた紳士のように、きっとあなたもがっかりなさったでしょう。だって私は音楽がとても好きでもお姉さまたちのように上手に楽器も、ダンスもちっとも踊れないんですもの。」
(あなたが踊れないよりも哀しいことはこの絵を見られないことだ。あなたの美しさがわからないことだ。その優しい目が見えるようになるのなら、こんなケチな、鼠にも劣るおれなど今度こそ本当に何度死んだってかまわない)
ルドルフがマリアンヌの描かれたキャンバスを持つ手を何度もきつく握ったり緩めたりしかできないで立ち尽くしている間に、もう一度アーニャに支えられてびろうどの椅子にゆっくりと腰かけながら、貴婦人はけなげに美しい声で歌うように続けました。
「でもね、画家さん。私の目は全く見えないわけではないのですよ。この窓辺のような明るい所にいて、近くの、あの辺りのはっきりした色などなら……」
春の陽がさんさんと注ぐ部屋、思わず祈るように足元に跪いた画家に、はっとしてマリアンヌは椅子からなめらかなドレスごと滑り落ちて叫びました。
「まあ!まあ!」
そうしてルドルフがどぎまぎするほど近くに、整ったハート型の顔を寄せました。
「庭園に、小さな青い花が二つ並んで揺れていた、あれはあなただったのね?私こんなに美しい色を生まれて一度も見たことがなかったのよ!」
そう、ぎょろぎょろと大きすぎて揶揄われてきたルドルフの眼は、天高い秋の空よりも、高価でマリアンヌのドレスにしか使えなかったラピスラズリの絵の具よりも濃い、透きとおった宝石のような青色をしていました。いつも美しいものを追い求めていた画家は、自分の美しさをちっとも知らなかったのです。
「……貴女は、貴女はいつでもじっとここに座っていましたが、ほんとうに俺を、この俺の目を見てくれていたんですか。ずっと」
ルドルフの声はアブサンを丸々ひと瓶飲み干したときよりも震えていました。マリアンヌの優しい手は迷いながら、お屋敷に来る前にどんなに洗っても油が落ち切らなかった画家の両手を探し当ててそっと握りました。
「ええ。これからはもっと近くで見せてくださいますか?」
アーニャばあやがエプロンの端で涙を拭いながら何度も頭を下げました。画家も深くこうべをたれ、まぶたをきつく閉じてから、マリアンヌに向き直りました。そして今までになくはっきりとした声で真っすぐな目でこう言いました。
「勿論です。俺なんかでよければどんなに近くでも。俺、いえ僕も貴女だけを見ますから。貴女の見えないものを僕が代わりに何でも見ます。約束します。画家の目はね、これでなかなかのものなんですよ……」
丁度そのとき白い縁の窓の外で、そよ風に吹かれ祝福するように、いつも二人を包んでいた春の花々が揺れました。
それからルドルフが遠いふるさとを飛び出したように、お金を沢山稼いだか有名になったかは分かりません。
でもきっと、美しい貴婦人がしわしわのお婆さんになるまで、その姿だけでなく、様々な草花や鳥や、たまには海辺の景色や違う国、たくさんたくさん色んなものを描いたに違いありません。
2023/04/03