変なおじさん


 今からわたくしがお話しすることは、昔むかしではなくて、今現在のことです。

 いつも自分より他のひとの事ばかり考えている人がいました。そういった人は前々からごくごくわずかでしたが、今では大変に少なくなりました。あんまり優しすぎる人や良い人というものは、何も言えないだけですとか、反対に後で化けの皮がはがれて恐ろしい魔物に変わってしまうことも多いのですが、そのひとは本物でした。わたくしから言わせるとそこまでいくと、人としては少し変なのでした。そのひとは男の人でしたので、そのまま年を取って変なおじさんになりました。

 朝から晩まで働いたあとで、変なおじさんはほとんど寝ないでまた勉強や、人助けをするのです。眠っていても誰かが困っていれば飛び起きて電話に出て、気のすむまで話を聞いてやるのです。それでいてお金を取るどころか返さないでいいよとあげてしまうのですから、変なおじさんはいつもたいへんに貧乏ですのに、お金持ちにもなりたくないのです。
 若いころはそれでもなんとかやってゆけますが(体は強い男の人ですから)、そろそろそれでは困ります。世の中には本当に良い仕事をする方々や、見返りもなくいつの間にかに人助けをしているひとも結構いるのですが、そのようなひとたちは皆こっそりやって自慢もせず黙っているものですからそれを知っているのは助けられた人以外には猫ですとか、見ても聞いてもいないと勘違いされているような草木ですとか、風からそれを聞いたわたくしのようなものだけです。わたくしが誰かはお話しできませんけれどね。

 ある時、七月だというのに真夏のような暑い日がありました。なんと39度もあったのです。こうまでの気温は人間だけではなく大変な息苦しさです。
 変なおじさんはその日も二時間しか寝ずに仕事に出かけました。もう数え忘れてしまうくらい何十日も休みなく働いておりましたし、どんなに若いじょうぶな人でさえこんなに強い日差しでは参ってしまいます。変なおじさんはもちろん貧乏ですので車も持っておらず、自転車でしたのでなおさらです。はあはあ、はあはあ言いながら自転車を漕ぎ、会ったこともないひとの為に、仕事が終わってから新幹線で遠くに行こうとしていました。汗だくでシャワーを浴びないとと真面目に考えながらもあまりの暑さで橋の下で休んでいたその時、変なおじさんはとうとう頭がくらくらして倒れてしまいました。
 (ただの軽い熱中症だろうなあ。)

 と、自分はいつでも後回しなおじさんはこう思いましたが、甘く見てはいけません、熱中症はたいへんに危険です。飲み物も持っていなかったおじさんは、だんだんと手足が動かなくなりました。そうして意識が遠のいていく中でも、ああ、あの人が死んでしまうなあと、こんな時でも自分より助けなければいけない誰かのことを考えているのです。こんなに変なおじさんがこのまま死んでしまっていいのでしょうか。

 あんなにも人助けをしたひとが最期に助けてくれる人もいずに倒れているのを、見かねた泉の乙女、水の精霊と申しましょうか、美しい女神さまが変なおじさんの夢の中に現れました。
 「この水をお飲みなさい。」

 と、きらきら光るふしぎな泉の水をおじさんに手渡しました。乙女の美しさに見とれたりお礼を言うひまもなく飲み切ってしまうほどおじさんはのどがカラカラでした。
 そうすると、頭のくらくらやのどの渇き以外にも、仕事で出来た手のけがや関節の痛めたところも、睡眠不足でたまった疲れも何もかも、ちょっぴり勉強のしすぎで悪くなった視力さえすっかり良くなっているのでした。これには変なおじさんも驚きました。

 「なにも言わなくても、あなたがいま何を考えているか、わたしにはわかりますよ。」
 乙女は優しく微笑みました。
 「それをどうにかしてどうにかして、できませんか。」

 変なおじさんは変な格好で真剣に頼みました。泉の乙女は悲しそうに、首を横に振りました。

 「あなたのようなひとがまず幸せにならないとできません。」
 「おれは、自分だけが幸せになんかなれないんです。」
 おじさんがすぐにこう答えると乙女はくすくす笑いました。そこで初めて変なおじさんは、この世の何処にもいないほどに目の前の女神さまが綺麗なことに気付いて、少し顔を赤らめました。

 「それも言わなくても、わかっています。だからわたしはこうしてやって来ました。けれどももう行かなくては、さようなら。」
 やさしく微笑みながら、乙女は光り輝く泉の中に消えていきました。おじさんは思わず手を伸ばしましたが――


 ――目を開けたらそこは、一休みしていたあの橋の下でした。

 (? いったい何が起きたんだ、気を失っていたのか。今何時だ。いけない、早く行かないと。)
 元気になったおじさんは大急ぎで自転車に乗り、アパートの方へと走り出しました。

 何でも覚えているのに今のことを何も覚えていない変なおじさんの後ろで、橋のかかった川の水が、きらっといたずらっぽく笑いました。





2023/09/02