芸術とは


 
 だいぶ年を重ねうつ状態でやる気ゼロであったが油絵がどうしてもやりたくて(流石に独学無理)通い始めた絵画教室の先生が、何かの絵を「これはイラストであり、芸術ではない」と言った時、何となく腑に落ちないが見ると確かに、と納得してしまうものがあった。

 「芸術」、「art」と呼ばれる絵画と商業的なイラスト、デザイン系に括られる絵との差は一体何なのであろう。額縁に飾られる堂々たる裸婦像と透明感しかないデジタルの萌え絵の違いとは……と言うとまた極端だが。


 見るものの心を激しくさぶったり、政治的メッセージや明確な意味合いがあり、それそのものとして独立した存在価値がある絵画、という事なのだろうか?お金持ちの投機目的とか言うのは(`・д・´)ヤメタマエ。

 所謂名画というのはバッグやスカーフやらグッズなどのデザインやキャラクターのイラストと一線を画すテイストではある、最近のアートはそこのところ曖昧な気がするし、萌え絵やゆるキャラの方がずっと愛されているけど。でもそんなのとはゼンゼン違う庶民には分からない高尚なモノが芸術なんだぜ(キリッ)、みたいな格上げ感は真の芸術家達の目指してきたものと真逆でなんだか許し難い気さえする。


 独自の表現、個性と、模倣したくなるほどの卓越性、部屋に飾りたくなる様な親しみ易さ、商品としての価値、を兼ね備えた画家が今までいたのだろうか?没後ではなく存命中に――。


 知っている中でパッと思いつき、私が大好きな日本では特に人気のあるモネ、ルノワール、ミュシャなどはそうかもしれない。特にミュシャの衝撃的なデビューとなったサラ・ベルナールやその後のポスターは当時の先鋭アートと商業イラストとの見事な融合、類を見ない成功例ではないだろうか。アール・ヌーヴォー、アール・デコ、それこそわりかし近代としては稀有な、芸術と暮らしとが密接に結びついていた蜜月時代でもあったのかな。

 アクセサリーや食器のデザイン(鉛筆なのに激ウマ)も手がけていたミュシャの画風――あの独特の洗練された優雅な曲線美――は真似する同業者が続出した上に、日本の漫画家にも多大なる影響を与え続けた(漫画家じゃないけど私もその一人でした)。ペリー来航鎖国こじ開けからの〜浮世絵にインスパイアされた西洋の印象派を始めとした画家達がさらに日本にフォロワーを産むという時を超えた文化交流に涙しない?するよね?この涙また大西洋に向かって奔流だよね?


 美術史にはさっぱり詳しくないしポップ・アートはまだしも、その後の何でもかんでもやったことないことやったもん勝ち、の忍たま乱太郎の歌詞みたいな世界は全然知らない。ポロックとかやっぱアートの凄みを感じたけども。コンセプトに痺れたものは近年だってたくさんあるけど「絵画」に限定してしまうと、うーむ、分からない……。

 もう技法や上手さ表現力より「何を描くか」「主題とするか」の時代になってきているなと、絵画の先生に賞を取った油絵や本などを見せて貰い、感じた。そしてそれはもう珍奇であればあるほど、誰も描いたことないテーマを見つけりゃ良い、みたいな気がしてしまった。(これは勿論批判ではないし、素晴らしいものも沢山あるんだけど)。

 モネのつみわらをサージェントの水彩画(神業)を、モニタや画集を穴が空くどころか燃やしてしまいかねないほど見つめたけど、あの輝きはどこにあるの?8Kテレビの中?あれ彩度とかコントラスト上げツヤツヤすぎて逆に現実より綺麗で目、疲れるだけじゃない?大体絵が上手いって手が器用ってより目が(略)


 本題に戻り、ミレーの絵……これは田舎育ちには本当にグッとくるものがある。昼も夕暮れも星空も……ミレーの絵を「彼の絵は本当に地面の土を用いて描いているかのようだ」と評した人がいた(知らない)が、まさに言い得て妙な色使い、厳かな雰囲気が漂っているのである。しんみりと深く、キャンバスに油絵の具を塗ったなんて信じられない、元々染み込んでいるものが滲み出たかのような、本当に晩鐘がどこからか聴こえてきそうだし遠く微睡んだ地平線から朝日が昇り沈むのをいつまでも待っていたいような絵画である。美術館で見た事はないし実際にそれをしたらフランダースの犬にもなれず閉館前に締め出されてしまうが。


 そんなミレーの「種まく人」。これよ、これ。かのゴッホがこの絵の模写やモチーフとして何度も描いているのを知り、やっぱりなと、この人この絵好きだろうなと思ったよ、と嬉しかった。私も大大大大だ〜い好き!だから。ナカーマの宮澤賢治を思い出す。

 大地に根ざし生きる人々の逞しさ美しさがこれほど現れている絵があるのかと。ない(断言)。この踏み出した大きな一歩、筆致では捕えられない速さで種をまく、しなる力強い右腕、鼓動さえも聴こえそうな捻った上半身の躍動感、一介の農民というよりまるで神話のサイクロプスの如き大きさに描かれている。そして農夫のズボンがなぜか不自然なほど眩い神性を帯びた青を秘めていることに、何か、何かを感じる。キャンバスには収まりきれない何かを――これはまるで揺るぎない信仰心の告白に近い。

 この奇跡的な名画を「農民の貧しさ悲惨さを訴えるだけの絵」とか上から目線で批評するサロンの金持ち共をキャンバスの角で思いっきり殴りたい。この種から何が育つのか、種まく行為の尊さが真の意味が分からんのか。この農夫に貧しさの代わりに神々しさを認められんなら、心の目腐ってるから目を洗うか取り換えるか永遠に何から出来たかも誰が育てたかも知らんワイン飲んで偉っそうに蘊蓄語ってろ(暴言が過ぎる)。


 ……そんなミレーの種まく人に強く心惹かれたゴッホは生前全く売れず(有名になりかけていた時に惜しくも死去)、画家の前に伝道師になるも情熱溢れすぎて挫折してるし、最初は暗〜い農家の貧しい食卓やらを描いていた。誰が見ても「これ部屋に飾りたくて買う人一人もいないだろう……」という絵である。でもここには昔の絵にはない真実の生活と闇に蠢く確かな命とが、ある。これまた素晴らしい画家ルノワール爺が「絵の中でくらい綺麗でかわいらしいもの見たいし描きたいジャン」的スタンスで一貫してまぶしい生命の輝きと幸福を追い続けたのとはまた違う。ゴッホは草臥れた革靴も描いていた。「古靴」というタイトルの絵、これは大変に私の心を打った。

 何に感動したのか?まず結構上手かったのもある。しかし履き古してくたっとなったただの汚い革靴を主役に据え、それを美しいと描きたいと思ったゴッホを美しいと感じたのかもしれない。彼がボロ靴をどういう風に見たのかはイタコの力を借り本人に直接訊いてみないと分からないが、油絵というのは今のデジタルのようにササッと気軽に描けるものではないし貧乏画家には画材なんか何もかもが高いのだ。とにかく「これを描きたい!」と念じるような強さで心から思ったから彼は描いたわけで、絵が美しいのか彼の魂が美しいのか多分両方だけど、ぼろぼろで靴紐がだらりと床に垂れた革靴は、その黒さと対比したかのような地面の輝きは、鮮やかな色のない絵は、言い尽くせない程に美しかった。七色の印象派とはまた違う、レンブラントの比類なく重厚で豊潤な輝きを思わせる。

 履き古しの縒れた革靴にレンブラントの気高さを表してしまう彼の高貴な魂にこそ「ルネッサーンス」とワイングラスを傾けたまえ(偉そう)。


 ヴィンセントの絵を間近で観られた事は殆どないけれど、あの象徴的な青と黄色を見るたび――混じり気のない真っ直ぐな青は、痛々しいまでに誠実にすぎる夜を貫く叫びの様な彼の哀しい魂の色で、強烈な黄色はそれを照らすために必要な光だったのではないかなと、いつも感じる。彼は自分を「犬」と言ったがその孤高なる咆哮が聞こえる。こうべを高く月に向かって吠える狼の如き真摯な姿はマジで美しい。ただマジ(本気)すぎて喉が枯れるか狼仲間もついていけず群れに溶け込めなそうで泣いちゃう。

 ゴッホを「狂った芸術家の代表格」みたいに謗る人は、彼と弟テオの間でやり取りされた頭良すぎる書簡を一読して頂きたいし、狂って自殺したっていうよりはっきり言って愛しすぎてたテオ(とその一家)に負担かけたくないからだもん。最後の絵すら明確に表現したいものがあったんだよ。そんな頭ハッキリしてる狂人いるかい。まあたまに発作起こすしカミソリ振り回して怖いけど、自分から入院するわ、よく知る人はみーんな「誠実な良い奴だったナァ」て泣くし、かくかくしかじか……だよ。タンギー爺さんとヴィンセントよ……うぅぅ。


 絵がこれほど好きな理由の一つに、一般的に大したことないとされる物が、普段見過ごしてしまう何ともない光景が――画家の眼差しという透徹なフィルターとそれに追随する嘘偽りのない手を通して――ものっすごく美しく見える、という魔法があった。美女はどう見たって綺麗だから普通にそこらを歩いてるだけで皆振り返るけど、しわくちゃのお婆さんでも、ただのテントでも、つみわらでもリンゴでも重なったワニでも、なんということはない部屋でも、死にゆく人や裸のおっさんすら、一般的に「醜い」「汚い」、「悲惨」とされるものすら「美」に変わる。……なんということでしょう(驚愕)。

 しゃなりとポーズをとったドレスを纏う女性や風光明媚な地、豪華絢爛な建物なんかよりそれらが凌駕することなんてあるのか?あるんですよ、絵の中でならね……。文学や音楽でも映画、漫画でも同じ。見えない美しさを描き出す、これを魔法と、芸術の力と呼ばずして何と呼ぼう。


 絵画は画家が何を美しいと思ったか、何に強く惹かれ表現したいのかがダイレクトに伝わるしその筆致から熱のこもり方、果てはフェチまで分かってしまう。

 セザンヌはピカソも影響を受けた超有名画家であったが、画集などで眺める限り「そんなに魅力的かなあ?」といった感じだった。が、とある美術展で実物を見て圧倒されてしまった。全然フューチャーされておらず、ごくごく小さな、家の壁なんかが描かれてるだけの絵でタイトルさえも覚えていないのだが……隣のほぼ同サイズのゴッホが霞んでしまう存在感。何故なのかと思った。自分でも理解できないまま衝撃だけを持ち帰ったあの日。

 後々思い返しても明確な理由など分からなかったが、その小さな絵に込められた、画家の絵画に対する信念、執念に近いもの――が、重ねた絵の具の厚みにこびり付き宿っており、私の魂を殴った。正直そこまで「美しい」とは思わなかったのだが、画家が絵を信じる力の強さ、命を懸けている恐ろしいまでの気迫があった。20年前のことなのに忘れられない。なんかかめはめ波打たれて10mくらい飛んだような気がする、心の中で。皆よくあの絵の前を普通に通り過ぎられるなぁと尊敬した。


 

 去年あたりから話題を攫っているらしいAI画像生成技術の進歩は凄まじく、先日少し試してみたら、これは殆どのイラストレーターどころかデザイナーをすら絶滅危惧種に追いやってしまうのではないか?と驚いた。アメリカで開発当初一般公開が躊躇われたのも頷ける。これは時代を、確実に世界を変えてしまう。

 現時点では無料のサービスなんかではありえない所から手が生えたり指が曲がったりほぼホラー画像(私なんか夢でうなされそうで即閉じるほど怖い)が生成されたりもしてしまうが、ほんの数十秒で信じられないクォリティの画像が出てきてしまう。まあ基本まだ誰かの画風をベースにしてあるのだけれど、何より絵が描けない人にはテキストが絵になるなんて夢のよう、描ける人もこれをベースに少し手を加えたら大幅な時間短縮になりそう、てな具合。自分にはない発想や構図がポンポン出てくるし、これからのアーティストはこれを使わない手はないだろうなと。あと単純に遊んでるだけで時間を忘れる面白さ。しかしこれはほんの序章に過ぎないであろう。


 良いのか悪いのか、人間の真の魂が宿る(と信じていた)音楽も美術もAIが作る時代になってしまった。それは言ってしまえば名匠が精魂込めた作品やら膨大なデータを弄るすっごいアルゴリズムなのであるが、間違いなくアートに新風を巻き起こす、どころか揺るがす革命である。今ですらやり方次第でオリジナリティを出すことも十分可能だ。むしろセレクトするセンスは変わらず問われるので今現在のイラストレーターに似た職業は廃れないのだろう。絵筆を握れなくともイメージがあれば絵が描け、楽譜が読めなくとも作曲が出来る。難しいツールも必要ない、素晴らしいことだ。そして更に進化して単なる「学習」に留まらない力をAIは見せつけてくるだろう。人工知能自身が「創作」する時代へ――。

 しかしそれは本当の意味での創作なのだろうか、「芸術」になり得るのか?魂を削り手に汗しなくとも、伝えたい想いがあり何かを用いて作者の訴えるものがあるのならそれは十分アートと呼べる(みたい)。打ち込みで一切演奏などせず歌はボーカロイド、なんて有名アーティストも五万といる昨今。なんと作詞すらAIがあり(!)、入院中なぜか出来た音楽仲間のデイビッドに添削を頼まれた。不自然な箇所はあるが大変ありふれたJ-popの歌詞、というくらいのレベル。フランス人に日本語の歌詞が作れるのだ。それは勿論良いことで翻訳ツールにお世話にならない人はいないし私もその恩恵を受けており――そこに作者の魂の息吹が、叫びが込められているのか?……もうそんな事は問題では無いのかもしれないが、少し虚しさに似た寂しさを覚えてしまう。


 時を遡れば、紛れもなく本物でもモーツァルトの協奏曲は殆どが単なる貴族のお食事会の耳に快いBGM用に作られたのだし、音楽の父大バッハだって芸術家というより教会でオルガンを弾く代々続く職業作曲家だった。アートってもはや誰かがどのように評価するかで決まっちゃうの?値段?やめて、と軽くまた絶望の小雨が降ってくるけど避けて、モーツァルトの芸術は個人的に数少ない短調の曲の方に迸っているように思う。初めてお抱え音楽家を抜け出しフリーになったのはそういう事かな、宮廷のオペラよりドイツ語のジングシュピールの「魔笛」(パパゲーノとパパゲーナの歌が大好き。未完成カードワースシナリオ大作は、漫画なのに感想文の賞を獲っちまったモーツァルトをモデルにしていたのだ!)を作ったり、なんか人間的には偉大なるベートーヴェンより私には好ましい(私には、ね)。

 しかし壊れたピアノでモーツァルトの5歳くらいの曲やらソナタを好んで弾いてはいたけれど、ジュピターの第四楽章をCDで聴いた時私は魂消てしまい「このお方大丈夫?誰か止めなくてよいのか……」で、なんやら白亜の教会の天蓋に描かれた、水色の空に天使舞う絵にぐいぐい近づき天高く上り突き破りそうな……また謎イメージが見えてしまい、恐ろしくも第四楽章だけたまに聴いていた(構成や流れも大切であるクラシックやオペラが聴かれなくなったのは、通して聴くには現代人には長すぎるのだろうと思った)。

 神に愛されし(愛する)もの、が持てる力をフル動員してどこまでも高みに、むしろ神に自分から近づこうとしているアマデウスがそこには居て、聴いてる私も何処までも一緒に引き上げられて怖くなっちゃったのよ。映画も最高だったな。あれサリエリが主人公な気もするけど。


 そう、facebookの「信仰」の欄に「無宗教なのですが、人の創った芸術に宿る神性を信じています」と皆がドン引きするかもしれない事を堂々と書いていた私め。洗脳されて何も言えなかったうつ時代も、若干、いやかなりおかしかった。私は人の中に神を見たのよ。芸術分野だけではないけど、アートとはその光の凝縮されし塊に見えたのよ。

 「どんなかみさまを信じているひとのしたことだって涙がながれるだろう」……賢治ィ~~~~ッ!!あーた様の言うこと全てに頷きすぎて首もげそう。



 何が芸術なのか、書き出してみて益々分からなくなってしまったけど、私の芸術への激愛、を書きました。熱量のわりにそんなに詳しくはないんです。多感な時期はずっと引きこもりだし美術館も数えるほどしか行った事ないし、海外なんて一度も……。

 でも熱愛する芸術家?は、時代に殆ど理解されず貧乏で夭逝している方が多い事実にも気づいてしまいましたが、わたくしめ彼らのお陰でクソミソ地獄人生を何とか生き延びられました、誠にありがとうございます。

 大抵のアーティストってセールスがど下手なので、ゴッホには弟のテオ、賢治には清六さんがいてくれて本当に良かったよ。テオとトシは彼らの魂の本当の理解者だったし。兄弟にそういう仲間がいたのは幸いで、結構(世間的には)おかしい息子を見守り困り果てながらもこっそり応援してたご両親がいた彼らが羨ましい(´;ω;`)

 そして芸術作品を人生をかけて創れる人はそんなにいなくとも、胸に響き後世に伝える人がいるからこそ作品が残るのだと思うと、世界中の人に感謝したいと思うのでした。



 ほんとうに夢、夢物語なんですけど

「目の見えない人に、景色が広がるような音楽を

 耳の聞こえない人に、歌が聴こえ物語や、香りさえ漂う絵を

 それ以上の事が伝えられる言葉、物語を創りたい」

 と、信じられない大それたことを痩せて死にかけ生理も止まっている、ほんの少女の頃から本気で考えていたのです。獣医さんとかなりたかったけど無理だし。

 芸術に救われた私は、テクノロジーではない方向から……そのまま大好きな創作という形で世界に何らかの恩返しがしたかったのだと思います。そして、伝えたい何かがイメージが想いがまず在る為に、歌や絵や踊りやものがたり全てが生まれ来る、それだけなのだと思います。それは「文字」が生まれる前からすらあったのだと思うと、人の営みは生きる目的は食べて寝て繁殖し長生きする以外にもあり、そこにこそ人にしかない人生の闇と光を、生きていくために必要な彩りを見ます。



 これは芸術だけではないんだけど


「自分も、やってみたい!」


 そう憧れを抱かせ突き動かすものこそが、何よりも本物です。それは、曇りなき眼でみれば誰でも、すぐに分かるのです。




https://kajipon.com/

 ゴッホについて調べた時にすぐにこのサイト「文芸ジャンキー・パラダイス」が出てきて、大いに参考にさせて頂きました。

 カジポンさんの迸る芸術への圧倒的な熱量に、めった打ちの悲しい引きこもり暗黒青春時代の凍死しそうな私の血は温められたのです。自分の表現だけではなく、彼を通してたくさんの芸術に出逢い、そこに込められた魂に触れ、憧れ、救われた部分も多かったのです。


 サイトをちらっと見たら何も変わらずで懐かしかった。驚く事に17才位で始めた元サイト開設が「文芸〜」スタートとほぼ同時期だったので、掲示板(なつい)に感謝を書き込んだら拙サイトに相互リンク(またなつい)して頂き、その後「ジョジョ立ち」で瞬く間に有名になられ、遠い存在に(旦那がジョジョ立ちの創始者と知り合いなの!?スゲー!と興奮していたがさっぱり知り合いではない)。でもこんな人が認められない世の中は終わっていると内心思っていたのですごく嬉しかったです。

 私の掲示板にいつだったか「カジポンを知っているんですか?あいつは変わってるけど情熱があって面白い友人ですよ。」という謎の書き込みがあったのもこの無駄な記憶力()で覚えています。

 この世界に、なんと日本のどこかに、私の信じた本物の「人間」が脈打ち生きているんだと思わせてくれた人です。トラウマで死にかけの時なんとか這いつくばって生き延び感謝を伝えなければと、青嶋先生らと共にリストアップした、私の命と魂の恩人です。心から感謝します。


 命より大切なものがもしあるとするならば、それは魂、譲れない誇りではないかと私は思うのです。私が自殺を肯定はそりゃ簡単に出来るわけないが全否定も出来ないのは、苦痛ばかりの人生からの逃避だけではなく、自らの魂に忠実である為に命の方を投げ打った人達も少なからずいるからです。

 決して愚かさや弱さなどではない、彼らは臆する事のない己が魂の殉教者だからです。


 医学数学科学、あらゆる学問を貫く正確さ再現性こそが文明をここまで発展させ人類を繁栄に導いた事実は疑いようもありません。しかし海と太陽の触れ合う「刹那に永遠を見る」ことのできる人の不可思議さに無限の可能性と美しさを見、信じ、生きたのです。若き詩人に共鳴して、輝く海をほんとうに私も視たのです。


 赤子の命が半分以上奪われたり流行病で人口が激減したりしていた時代から、暖かな危険のない家でスマホをのんびり弄り、何と言うこともなく過ぎていく安穏とした暮らしへ……これはその日の食物を得るのにも四苦八苦命がけだった古代の人が夢見ていたものでしょう。しかし増え過ぎたせいなのか、何なのか分からないけど、私には人という存在がとても軽くなってしまったように感じます。

 昔よりも明らかに時間と余裕がある?はずなのに現代人は長いものを読めないし待てないのです(これは私も例外ではないと思います)。Youtubeすら20分観ていられずショート動画の方に流れ、本はあらすじや要約だけ分かればよい。著者が行間に込めたものに費やした膨大な文章に触れずして、果たして何を得られるのでしょうか。社会にまともに出たことは殆どありませんが、みな何かに追い立てられゆっくり感じたり考えたりするいとまがなく――子どもの頃誰もが持っていたはずのものが世間の常識に、溢れすぎた情報に汚染されてゆくのを見ていました。何もかも空虚に消費されつくしている。
 世界の「普通が底上げされた事により他者と比較しての苦しみや、当たり前ではない幸運に感謝が出来なくなっているのかもしれないし、単にこれは人の飽くなき向上心と更なる変革、進化の一部なのかもしれない。この100年、いやたった20年足らずでの目まぐるしい変化置き去りにされているのはきっと人間の肉体や脳、精神の方なのでしょう。


 賢治が感じた世界にまだ追いついていないどころか、後退しているようにさえ思う……私は無学で阿呆で、考えずに感覚的に生きているから、変なものを見たり感じたりするのかな?文そのものは少しも難解ではないけれど賢治の感覚はあまりに神秘的だし、宗教科学芸術がひとつとなった彼が目指した世界――それは殆ど夢や空想に近いほど理想的な、桃源郷なのかもしれません。

 でもどんなにか汚いものを見、腐って流されろと書きなぐりながらもこう願いつぶやかずにはおれない賢治に、どこまでも同感したいんです。


 「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがいまそれをかんがえているのだから。」





2023/05/12