idea 幼稚園児が思いつきそうなこと。

大学の学費

 旦那さんは私より一回り年下なので、Zに近いくらいのゆとり世代である。

 決して裕福な家庭出身ではない苦学生なので大学の学費はもちろん奨学金、その他諸々も土日お正月すら休みなしで五年間バイトをして払っていたし未だ返し終えていない。通勤に車が絶対に要るので買うしかなかったと。

 ここらへんで「ちょっとまってよグッバイ~優しい声で~」と歌いたくなる。

 奨学金やローンというとなんだか綺麗な雰囲気だが、社会に出る前にものすごい「借金」を背負っているのである。10万20万どころではない。

 ついこの間まで学生だったのに!?働き出してすぐに病気になったりしたら、新卒で良い会社に入れても一回辞めてしまったらどうなるのか。

 そんなの全く持って知る由もない最終学歴中一の私だから言えちゃうアホな考えであるが、大学は基本無料で入れる(一応試験は通常通りある)。が、在学中に優秀な成績を修める、又は勉学に対する真摯な態度やなにがしかのズルの出来ない実績などの評価で学費が変動するのだ。

 つまりは真面目に勉強した学生は只のままで、だらけて遊んで飲み会で酔って酔わせて本の一冊も読まない何しに大学入ったんだよみたいな学生(青春をかけて部活に燃える学生はそれが実績であろう)がその分を肩代わりするというわけ。

 一応普通に通っていたら卒業は出来る。就職の時も「おっ、君大学のランクはそこそこだけど無料卒業の証があるやないの!やる気が感じられるね!」ってね。

 というかまず大卒じゃないと門前払いの会社が多すぎると思う(よく知らないけど)。研究者とか高度に専門的でない仕事なんか高卒中卒だっていいじゃん。あとから資格とったりもできるのに。

いのちの電話

 「いのちの電話」これはめっちゃ勉強した方々がボランティアでやっているらしい。

 全然繋がらない、酷いことを言われ余計傷ついたなどよく見かける。藁にもすがる思いでかけたのにそんなんやられたらトラウマである。

 精神科医も同様だけれども。(ちなみに15年も鬱で何回も死のうとした割に私は一度もかけたことは無い。病み系ワードを検索すると絶対出てくるがかけたいと思ったこともない。ただ絶望アカウントやっていた時Twitter社から「ねえねえきみ最近あぶないtweetばかりしてるけど心配だよ?」と英語で何度もメールが来て知り合いより優しいじゃんって思った。)

 自殺防止のそんな命のかかった尊いはずのお仕事が無給とは……?

 それは置いておいて私はついこう言ってしまった。

 「全然死にたいとか思ったことのない(偏見)、お金貰わなくともよい悠々自適の方々(偏見)に上から目線でなんか言われるより(偏見)、死にたい人同士が直接繋がって

 『あなたの死にたいはどこから?』
 『今すぐ消えちまいたいよ、詳しくは言えねぇけどこんなひっどい人生だよ!』
 『そりゃあ死にたいよな!あたしはこんなだよ!』
 『いやぁ……誰でも死にたいよそれは、よくやってんな』
 『わかってくれるのはあんたみたいなのだけだよ……ずっと辛いからもう慣れちゃったのかな』
 『泣くなよ、こっちもつられて泣いちまうじゃねえか』
 『明日までとりあえずお互い生きてみようか、ね』
 『酒はほどほどにな』
 『あんたもね。おやすみ……』

 みたいなほうがよっぽど癒されないかな」と。

 誰も人の辛さなんて完全には理解も共感も出来ないけども、他人だからこそ言えることってあるだろうと思う。これはこれでトラブル起きそうだけど。

性被害防止

 ものすごく突然ではあるが「女性がミニスカートなどをはくから男性の性欲をかきたて性被害を誘発~」とか言う奴はだったらお前が家から一歩も出るなだが、確かにスカートやワンピースを着ていると……そういう被害に遭いやすいというか、加害が容易になってしまうというのは女の立場からしても否定できない。

 だってスカートなんかペロンとめくれてしまい危ない事この上ない。

 もしもスキニージーンズや800デニール(あるわけがないが)の分厚いタイツなんか履いていたら、逃げられない誰にも助けを呼べないよほど危険な場所にいなければ、犯人も手こずるので急所を蹴ったり逃げられる可能性が(怯えてしまうし力ずくで抵抗できないのはどうしようもないけど)高まるのは間違いない

 さらに幼稚園児思考の私は思った。

 「ベルトが知恵の輪ならどうか。無理やり開けようとしたらとんでもない大きさのブザーが鳴る。」

 もちろん本気、大真面目である。しかし本人も開けられない難しさなら、下痢の時とか終わりだなと二秒後に断念した。

 でも本人だけ瞬時に開けられるベルトって良くないかな。車の鍵みたいに……。

時の流れについて()まとめて再掲載

 幼き、と言うほどでもないけどかなり若い頃にふと考えた、と言うか思ったことがありました。


「時の流れとは?はてな?一体何だろう?」当たり前になり過ぎている事への疑問がふと頭を掠めました(いつもこう)。


 時計がない時代にも勿論時間はありました。曖昧であったろうけれども、そもそも時間(時計の)の正確さなどという観点もまた現在分単位で時に生活を支配されすぎている私達だけが持ちうるのでありますが。


 古代オリンピックでは速さ長さを競っても今みたいなタイムなんか取ってないだろうし。太陽が上り落ちたり季節の巡る早さが、人類史を刻んだ位の僅かな期間に大幅に変化したわけもないし。


 しかし時が流れているのは生物の成長(或いは老化)、巡る季節、月の満ち欠け、どんなに巨大な惑星にすら寿命がある、それらを鑑みても確かなわけです。疑いようがない。


 でもそれが無かったら如何にして時の流れを実感出来るのだろうか果たして物体がないところに時間は存在する、した、のだろうか。宇宙全体が均等に時間を刻むのか?等まではその時は当たり前に考えていませんでしたが……。


 「今ここ」と口に出した時にはもうそれは今現在、ではなく「過去」になっている(その声が消え、思い返す頃には尚更)。


 「未来」と思ったものは1秒後もう今「現在」に成り代わっている。


 ならば「今この瞬間」というものは一体何処にあるのだろう?完璧な現在とは?どこにも無いのではないか?

 いや、逆に全ての歴史が完全な「今この瞬間」の連続に過ぎない……。


 というのを2分くらいで考えたというより、単に思いました。そしてすぐ辞めました。考えたって分からないから。


 疑問が沸いてもさっぱり追求しない、この辺りに智の致命的欠如を感じます。