我は赤ちゃんである。此度、非常に生易しい文章と愛らしい画に彩られた書物――と、回りくどい表現を避けて言うと「絵本」の読み聞かせとやらが始まった。まあ我の手足の伸び具合、窓から覗く景色で時の流れを計ってもそろそろその様な頃合い、最適の時節到来ではあるなと予想はしていた。何も驚く事はない。

 我のお気に入りは「きらきら なあに?」である。理由は至って単純、題名の通り煌びやかな装飾が施されており目に快いのだ。本の大きさも手頃で小さき手にも繰り易く、角も丸く我々の柔肌を傷つけぬ様細やかに設計されており、無闇矢鱈に我等を心配するのがご趣味の父母も安心で御座ろう。

 しかし我々赤ちゃんは未だ生後ウンヵ月であるというのに、冒頭から何とも難解である。
 行き成り「くもさん くもさん きらきら なあに?」と来たもんだ。徐々に明瞭になってきたこのつぶらな目を凝らし、眠い瞼を幾度擦りどの角度から眺めてみても――この描かれし物体、いや奇態な気体と見せかけた液体である「くも」は、「蜘蛛」ではなく「雲」であることは若輩たる我にも一目瞭然であるのだが、先ずこの問いは「くもさん」に問いかけているのか読者である「我」に問いかけているのか――そこからして大問題である。To be,or not to be,かの偉大なる巨匠シェイクスピア並みの書を0歳児に与えし母よ……流石にその教育はスパルタ式ではないか。
 其の上畳みかけるように「きらきら」という抽象的に過ぎるものを何かと答えよとは。我はまだ身を横たえたままこれを見上げておる未熟さというに、若しや一年後ラテン語を読まされているのではなかろうか?少々眩暈がしてきたがこれも単なるミルクの吐き戻しとして流れるように瞬く間に処理されてしまう案件、何故なら我はか弱き赤ちゃん族、抗う術は泣く事のみ。

   * * *

 捲るごとにめくるめく倒錯に襲われる狂気の沙汰この書物に耐え抜き、なんとか正気を保ち最後の頁まで辿り着いた我であったが、然しこれは……。

 「あつあつ パンケーキ めしあがれ!」と言っているのは熊である。恐らく、それは疑いようがないであろう。まあ雲に人と思しき顔がある世界なのだから、うさぎや熊が喋るのも何ら不可解ではない。
 熊というものは大概、お主は実物を真に見たことがあるのかと絵師に小一時間問い詰めたくなる、実物と似ていないにも程がある凶暴さの欠片も無い描かれ方をしておるものだが、問題なのは不気味な表情で差し出されているその「パンケーキ」。熊の顔を遥かに上回る大きさは遠近法と見做し目を瞑れようものの、その形状をパンケーキと呼ぶことは我にはこれまたむつかしいのである。どう見積もっても只の一枚でそれならば「クグロフ型」、或いはシフォンケーキほどの厚みではないか――。

 背表紙が漸く閉じられたその時、流石の我にも作り笑いを浮かべる余力すら残されてはいなかった。生まれて初めて敗北感にも似た気持ちを味わった。「絵本」、これは我々赤ちゃんの愉しみどころか恐るべき苦悩の源である。
 激しい疲労に溜息をつきかいなを上げ額の汗を拭うと、我の衣類が納められし純白の箪笥の上に、何冊もこのような類の書物が並べられているのを発見してしまった。一冊ごとにこの目まぐるしき混乱の渦に巻き込まれるのかと、未だ序盤の幕開けにも到達せざる人生というものについて思い巡らせば、その果てしない道程にまた眩暈がした我であった……。

 

 ~多分続く~